空海が修行した青龍寺にて(西安旅行⑥)
西安市の郊外に、空海が密教を究めるため修行した青龍寺がある。とても落ち着いた雰囲気の建物で、ここが中国であるとは思えないほど日本の寺社に似かよっていた。入口には、空海が密教の普及を念じ、海に投げたとされる三鈷杵(さんこしょ)のレプリカが置かれ、お寺の中央には、空海が密教の経典を受け取る姿の銅像があり、空海ゆかりの場所である事が一目で分かるようになっていた。
空海は第八期遣唐使として、31歳で長安(西安)に来るが、同じ時期に38歳の最澄も長安へ留学している。後世、何かと比較される最澄と空海。最澄はいわば、国費留学生だったのに比べ、空海は私費留学生だったようだ。最澄は、短い期間だけで帰国できる、いわば国のひも付きだったが、空海は何の後ろ立てがない為、20年という年月を長安で過ごさねばならない縛りがあった。空海はその年月を短縮するが如く、青龍寺で必死に密教を究め、結果、数年で帰国できるほど、内外に認められる事になる。
その後、最澄は比叡山延暦寺を拠点に天台宗を開き、空海は、高野山金剛峰寺にて真言宗を開く。この2人は日本の仏教を大きく発展させる偉業を為すが、晩年、2人は仲たがいする。それぞれの仏教の解釈による違いともいわれているが、最澄の一番弟子でもあった泰範が、空海の元に身を寄せたり、最澄が借りたいという経典を空海が断ったり、と、なかなか2人の遺恨は深そうだ。それでも、最澄も空海も、お互いが逸材であったことは認めあっていたに違いない、と私は思う。
世界を見ても、同時期に2人の天才が現れる事はよくある。心理学者のフロイトとユングもそうだ。元々、ユングはフロイトにあこがれて弟子入りするが、その後仲たがいをし、ユングは新たな自分の学説を作り上げる。結果として、2人は世界中の心理学者に大きな影響を与える。最澄と空海も、そんな、選ばれし2人だったのかも知れない。
空海が密教を広めるため投げた三鈷杵が、高野山の松の木にかかった逸話がある。通常、松葉は2本だが、高野山の松葉は3本あり、縁起物として珍重されている。西安青龍寺にある松葉もすべて3本で、ここにも空海の軌跡が残っている事に感動した。青龍寺の3本松葉を一つ手にとり、私もあやかろうと財布にそれをそっと入れた。