唐王朝、玄宗皇帝の思い(西安旅行⑧)
阿部仲麻呂や吉備真備らが遣唐使として長安を訪れた時は、唐王朝第6代皇帝、玄宗皇帝の御世である。712年に即位した玄宗皇帝の時代、長安の人口は100万人を超え、世界最大の都市であったと言われる。玄宗皇帝の政治は「開元の治」と言われ、名君と称えられた。後半は、楊貴妃におぼれ、政治をおろそかにしたと言われてはいるものの、日本人留学生にとっては、とても寛大な皇帝だったと言える。
阿部仲麻呂や井真成は日本に帰る事が出来なかったが、吉備真備は17年に渡る唐の留学から、自らの経験と共に沢山の唐の書物を日本に持ち帰っている。真備が日本に持ち帰った唐の書物のリストが「続日本紀」に残されている。律令制に関する法律の書、軍事に関する書、建築や音楽の書、暦まで、あらゆる唐の制度・文化を真備は日本にもたらした。その後、それらの書を元に、真備は聖武天皇の右腕として、大いに日本の政治・文化を発展させ、日本の国造りに寄与した。
これは一重に玄宗皇帝が寛大であった事を物語る。世界でも最先端の文化を持っていた唐の玄宗は、日本人留学生に対し、惜しみなく文化を伝授している。もしかしたら、玄宗皇帝は、更に深い思惑があったのかも知れない。中国の東には朝鮮があり、日本を取り込む事によって、朝鮮と中国間の緩衝材にしようとする目論見も、想像する事はできる。それでも、玄宗皇帝は、武力で抑えつける外交よりも唐の文化を伝授し、日本と袂を分かち合う事で、より深い繋がりと平和な外交を目指したのではないか、と私は思う。玄宗皇帝の巧みな処遇と優秀な日本の遣唐使のもたらしたモノによって、奈良時代平安時代の日本は国造りの骨組みを作る事が出来、長安の律令制度は、長く日本の基本法となった。
それから、1300年以上経ち、中国と日本は、時の流れとともに、其々大きく変貌していった。それでも、この西安の地で、玄宗皇帝と日本人遣唐使の密なる歴史があった事は間違いない。西安の地で数々の歴史遺跡を巡り、始皇帝から玄宗皇帝の思いにまで触れた。私が触れた所は、膨大な歴史のほんの一部分に過ぎない。それでも、中国の歴史ロマンと日本人遣唐使の軌跡を感じた素晴らしい旅だった。この感動を胸に、名残惜しくも私は帰路に就いた。