スーパーマン始皇帝と後継者(西安旅行③)
始皇帝陵には、始皇帝が巡行の際利用した銅馬車が展示してある。青銅で作られたという馬車は、とても精巧にできており、馬具だけでなくその馬の毛さえ本物であるかのように見える。本当に、これが2200年前のモノなのか、と当時の職人技に感動させられっぱなしである。
始皇帝(嬴政)は、幼い頃、人質に出された王族の子として趙で育つ。王位継承権はとても低かったが、豪商呂不韋のサポートで即位する。幼い頃の経験がそうさせるのか、始皇帝は、王位についてから一心不乱に中国統一に向かって邁進する。巡行はその最たるモノで、貨幣や度量衡を統一したといっても、本当に地方の隅々まで行き渡らせるには、統治者が実際に出向いて浸透させるより他がなかったのである。そう言った意味でも、始皇帝はとても勤勉だったと言える。
晩年は、焚書坑儒により、始皇帝の暴君ぶりが伝えられているが、近年の研究では、始皇帝が貧しい農民に対し、種もみを与える様指示した木簡が出てきており、始皇帝の善政ぶりが再確認されている。木簡は、既読済みのサインまで為されており、当時の行政がいかに優れていたかを物語る。
始皇帝は、自分の死後については熱心だったが、後継者の育成を疎かにした。始皇帝亡き後は、末子胡亥が宦官によっていいように操られている。始皇帝が、長子扶蘇を後継者にと遺言するも、握りつぶしてしまった宦官趙高。趙高は、始皇帝の権力を思うままに振りかざした。自分の権力を確認する為、わざと、鹿を馬と言い、自分に反して鹿としかと言わなかった官僚をすべて殺してしまった逸話がある。これが「馬鹿」という言葉の由来だそうだ。
更に趙高は、胡亥に簒奪される危機を煽りながら兄弟を抹殺するよう助言し、胡亥は兄弟全てを惨殺してしまう。皇族とは、その血を絶やしてはならない、という掟を胡亥は理解していなかったのである。
西安市の郊外に、「二世墓」と書かれた小さな廟が祀られている。計り知れない父の始皇帝陵と違って、あまりにも小さな胡亥の廟が、その評価を物語る。この広大な中国地域をひとつにまとめる事が出来たスーパーマンの始皇帝が築いた「秦」は、たった15年で終わりを告げる事になった。