趣味の効用③ 渓流釣り
早朝、夜が明けて6番の細い釣り糸がようやく見えるようになった頃。餌のブドウ虫を付け替えるために振り出し式の竿を手繰り込もうとしたが、まったく竿の先が入ってこない。
よく見ると、竿の先の水滴が凍りついている。
季節は早春、渓流釣りが解禁になる三月一日。皆さんがぬくぬくとあたたかい布団の中で春眠を貪っている時、なにが悲しくて午前三時前に起き出して、標高千メートルの山の険しい渓谷の凍りついている川に入らんといかんのか。
これができるのが谷師(たにし。渓流釣り愛好家)と呼ばれる連中なのです。
谷師になって何がいいか。
過酷な状況で警戒心が強いヤマメを釣るには、全神経を集中して、自分自身が野生の動物にならないといけない。
つまり、普段悩まされている世上の雑事(例えば、金銭の工面とか、夫婦間の不仲だとか)をすべて忘れないといけない。
これは、私に言わせれば、心のゼロ点調整なのです。日頃の雑事の積み重ねで、暗い方、鬱の方、に傾いている気分をいったんゼロの状態に戻してやるのです。
ヤマメ釣りをしていると、日ごろ悩んでいたことが何でもないことのように思われてくる。
そうして山から家に戻った時には、清々しい生まれ変わった自分になっています。
新しい小説のアイディアが浮かぶのも、そんな時なのです。
九州文学編集長 木島丈雄